Quantcast
Channel: GET AWAY TRIKE !

邪悪の種子

$
0
0
 筆者は昔から悪だくみが得意科目だったクチだが、そういうわけでここ数ヶ月怪しい動きを見せているのは言わずもがなである。今年の3月から色々と(もっと言えば一昨年の秋から)現状では表沙汰にはできない新作が相当数あったりもして(芦別のティラノサウルス類に関しても昨年の早い時期にうすぼんやりとした話があったりもしたのだが、結局のところ発注があったのは6月に入ろうかという頃で、公開は6月半ば過ぎとかなりのスピード案件であった)、このあたりは(一番早いものでも)陽の目を見るまでたっぷり半年はかかろうものである。一方で、絵のない案件についても色々と手を出しつつある昨今であり、こちらのうち1件は年明けには明るみに出るだろう。
 読者の皆様には何かと楽しみにしておいてほしいところなのだが(我ながらだいぶどでかい話に複数ありついたものである)、筆者が一番楽しみにしているのは言うまでもないことである。

おわりのはじまり

$
0
0
 大晦日である(齢を取るにつれ実感がわかなくなってきた)。職にありついたりなんだりで今年も色々あったのだが、まあなんとかさばいた格好である。

 業界を振り返ってみれば、今年もミャンマーの琥珀が席巻した1年であった。翼竜の「羽毛」に関するかなり衝撃的な話もあり(なんだかんだこれまでまともに微細構造を観察できる保存の羽毛はなかったのだ)、恐竜に関していえば空前絶後(かは今後の話だが)のレバッキサウルス類の当たり年であった。アンフィコエリアス・フラギリムスの思いがけない再検討もあったが、あれは半ば質の悪い冗談だと受け止めておくべきであろう。
 また、アーカンサウルスやサルトリオヴェナトルなど、ここ20年近く非公式に命名されたきりだった恐竜が陽の目を見た年でもあった。(以前SVPで出ていたネタではあったが)メデューサケラトプスは無事セントロサウルス亜科として再記載され、そしてアルボアの整理した旧エウオプロケファルス群はペンカルスキー(久方ぶりの登場であろう)によって細切れにされるなど、北米の事情は相変わらずであった。ブラウンスタインによるアパラチアの恐竜相に関する研究はやたら細切れに出版されたが、いずれも断片的な化石に基づいていることはまあ言うまでもない話である。

 ひるがえって筆者といえば、最初の3ヶ月――特に3月は論文の執筆と、それから某案件(いつ陽の目を見るかがさっぱりなのだが、事が事だけに腰を据えて待つべきなのだろう)で大わらわであった。5月に受けた案件は即座に公開されたわけだが、そういうケースは現状それが唯一のようだ。論文は最初の査読でズタボロにされた割にはすんなり出版にこぎつけることができたようだ。秋すぎからは色々あったが、そういうわけで来年(もっと正確にいえば半年後)へのお膳立ては割と始まったばかりなのかもしれない。

 そういうわけで今年も順調に(?)不安定な更新ペースだったのは許してほしいところなのだが、まあその辺は同人誌でも読んでおいてほしいところでもある(在庫はまだそれなりにあるのだ)。



 というわけで来年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。来年は色々席巻する予定なのでおたのしみに(・∀・) 新年最初の記事は【検閲】にするわけにもいかないのでサウロロフスだ、いってみよー!

君はあの影を見たか

$
0
0
イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of huge hadrosaur
Shantungosaurus giganteus (composite; including holotype GMV 1780-1) and
Saurolophus angustirostris (composite; largely based on MPC-D 100/764).
Scale bar is 1m for GMV 1780-1 and MPC-D 100/764.

 あけましておめでとうございます。今年もGET AWAY TRIKE !をよろしくお願いします。


 ハドロサウルス類といえば名実ともに世界を支配した恐竜といっても過言ではない(ゴンドワナにしても南米そして南極まで食い込んでおり、北アフリカでそこそこまともな標本が出てくるのも時間の問題だろう)。サントニアン初頭ごろに出現すると瞬く間にローラシアはおろかゴンドワナにまで進出したわけで、ティラノサウルス類など物の数ではないレベルで繁栄したグループなのだが、その実ティラノサウルス類にかじられるのが板についている昨今である。
 
 今のご時世、日本でハドロサウルス類といえばむかわ竜ということになるのだろうが(現実問題として、下手なララミディア産のものより完全度は高いのだ)、ニッポノサウルスは置いておくとして、西南日本の各地でもハドロサウルス類の化石はちょこちょこ産出している。淡路島のランベオサウルス類は完全度はともかく保存状態はむしろむかわ竜を上回るものであるし、昨年(2018年)に報告された上甑島のハドロサウルス類の大腿骨は推定で長さ1.2m――まごうことなき10m級のハドロサウルス類のものである。その辺のティラノサウルス類をサシで殴り倒せるレベルの動物がいたのだ。

 ハドロサウルス類はローラシアならどこにでも住んでいたようなものだし、さらに言えば海成層からもちょくちょく出てくる(むかわ竜は言うまでもないが、アウグスティノロフスなど、それなりに沖合であっても全身骨格が出てくるケースは他にもあるのだ)。従って日本各地に点在する上部白亜系から出てくるのは訳ない話なのだが、一方で、ハドロサウルス類の骨格が展示されている博物館は国内では思いのほか少なく(現状の雰囲気でいくとむかわ竜の骨格もあまり量産はされなさそうだ)、まして10m超級となればなおさらである。
 こんにち国内でみられる唯一の10m超級のハドロサウルス類の全身骨格が、福井県立恐竜博物館にあるサウロロフス・アングスティロストリスMPC-D 100/706のキャストである(読者のみなさまもご存知の通り、これのオリジナルはしばしば来日している)。展示配置の問題もあってその全長を実感するのは難しい(実のところ胴椎がいくつか欠けているのを強引にマウントしているようである――これはタルボサウルスも同様である)し、また棘突起は派手に失われている(バルスボルディアは結局のところ本種のシノニムとみなせるらしく、だとするとサウロロフス亜科でも屈指の背の高さを持つ計算になる)が、そのプレッシャー(富野節)を感じるのには十分すぎるだろう。
 
 とはいえ、実のところサウロロフスの最大個体はこの骨格ではない。例えばモスクワにあるひどく潰れた頭骨PIN 551-357はMPC-D 100/706よりわずかに大きいし(変形を補正すればもう少し差が開くかもしれない)、林原が各地で展示していたブギン・ツァフ産のほぼ完全な骨格MPC-D 100/764――計測値がろくに出版されていないうえ記載も中断されている(岡山理大には何とかしてほしい所存)――も、MPC-D 100/706よりやや大きそうである。つまるところ(足跡に基づく18mという全長の推定は置いておくとして――ブレヴィパロプスを忘れてはならない)、シャントゥンゴサウルスと同等のサイズなのである。

 恐ろしい話だが、実のところ10m超級のハドロサウルス類は世界的に見ても――少なくとも北米とアジアでは決して珍しいものではない。アパラチア産のいくつかの断片(時代やら古地理からすると真正のハドロサウルス類としてはかなり古いタイプだろう)が10m超級のものらしいことは古くから指摘されてきたし、シャントゥンゴサウルスやサウロロフス・アングスティロストリス、マグナパウリア(先の2つに比べるとやや見劣りするサイズだが、「背びれ」がとんでもなく大きいのでサイズ感は相当だろう)は言うまでもない。
 あげく、従来9m止まりと言われていた(12、3mに届くという話もあるにはあったが)エドモントサウルス・アネクテンスがどうやらシャントゥンゴサウルスと同等の体格になるまで成長したらしいことまで明らかになったのである(ブラキロフォサウルスも8m止まりと見せかけて13mほどにはなるらしい)。結局のところ、ホーナーの弁――既知の恐竜の“おとな”のほとんどは亜成体に過ぎない――は、割とそれらしく聞こえてくるものでもあるのだ。
 
 このあたり、上甑島の大腿骨はたぶん氷山の一角でさえないのだろう。10m級のハドロサウルス類はユーラシアの内陸だけに留まらず、海岸線近く――ひょっとすると波打ち際さえ歩き回っていたのである。
 むかわ竜の全長はざっと8mちょうどくらいのようなのだが(ハドロサウルス類はこのあたり、大腿骨1本でも割としっかり推定が利くのだ)、ハドロサウルス類としては(サイズの割には)かなりスマートな部類であるらしく、あまり高くないらしい棘突起も相まって、どことなく若い個体であるらしい印象さえ受ける。あるいはむかわ竜も、環境が許せばひょっとすると10mクラスまで育つのかもしれない。

 サウロロフス族はカンパニアン後期からマーストリヒチアンの終わりごろまで繁栄したわけだが、プロサウロロフスやアウグスティノロフスは海成層からほぼ完全な骨格が発見されていたりもして、内陸から海沿いまで広い範囲で栄えていたらしい。ユーラシア大陸の東岸でも全長10mを越す巨大なサウロロフス族がティラノサウルス類を蹴散らしていたというのは、多分にありそうな話ではある。

(開設初年度を除いてげったうぇーとらいく!の年頭記事はハドロサウルス類、それもアジア産のものが恒例であった。例によって今年もそうなったわけだが、このあたりの事情については、筆者の邪さについてよくご存じのみなさまには多分とっくにお気づきのことだろう。備えよう。)

失われた者たちへの鎮魂歌

$
0
0
イメージ 1
↑Skeletal reconstruction of famous Smithsonian trikes.
Top, Triceratops horridus USNM 2100;
bottom, Triceratops sp. USNM 4842.
Scale bar is 1m.

 スミソニアン――本ブログの読者にはたぶんUSNMと言った方が通りがよい――の恐竜展示の歴史は当然古く、化石戦争の戦後処理を担わされてからかれこれ100年以上に渡っている。そんなUSNMの恐竜ホールがリニューアル工事に入って5年が過ぎ、今夏ついに再公開されるわけである。
 かつてのUSNMを飾っていた輝かしい復元骨格の数々――これまでも本ブログで取り上げてきたし、今後も取り上げるはずだ――はすべて実物からキャストへ置き換えられ、最新の技術で新たなポーズに組み直されたわけだが、その中でひっそりと「息を引き取った」マウントがある。お披露目から114年、紆余曲折がありながらもUSNMの「顔」として閉鎖された恐竜ホールの留守さえ守ってきた“ハッチャー”――トリケラトプスの合成復元骨格は、“合衆国のティラノサウルス・レックス”――USNMに50年間の期限でリースされたMOR 555に我が身を捧げたのである。

 マーシュ麾下の最強の化石ハンターであったジョン・ベル・ハッチャーは“長角バイソン”を皮切りに、ほぼ全ての種のホロタイプを含むあきれるほど大量のトリケラトプスの化石を19世紀最後の10数年で発見したのだが、そういうわけで化石戦争がコープとマーシュの死で幕を閉じた時、トリケラトプスの化石はマーシュの拠点であったイェール大学ピーボディ博物館(YPM)にはとても収まりきらない量になっていた。かくして相当数の標本(ほとんどはジャケットも外されていなかった)がYPMからUSNMへと移管されたのだが、その中にはマーシュが生前記載・図示した標本も含まれていたわけである。
 トリケラトプスの化石といえば今も昔も頭骨ばかりのイメージが強い(実際その通りではある)が、実のところ“ケラトプス”・ホリドゥスの原記載から2年後の1891年には、足を除く全身各部の代表的な要素が(“鎧”と共に)記載・図示されていた。その中にあったのが後のUSNM 4842――“ハッチャー”の主要部分を占める、かなり大きなおとなの部分骨格であった。

 なんだかんだで(椎骨のカウントなど、謎は多かったのだが)それなりの要素が集まっていたこともあり、1896年にはマーシュによる北米産恐竜類の総括の中でトリケラトプス・プロルススの骨格の復元が試みられることとなった。この復元は(最初の復元の試みでありながら)いまだにトリケラトプスの復元イメージを支配しているという代物であり、そして究極的にはUSNMのトリケラトプスの運命を支配するものでさえあった(そしてこの骨格図の体部の主要部分をUSNM 4842が占めていることは言うまでもない)。
 アメリカの輝かしい(そして血塗られた――当時の大統領であったマッキンリーは会場内で銃撃されその後落命した)20世紀の幕開けを飾るパンアメリカン博覧会にブースを出展するにあたり、USNMがシンボル展示に選んだのがトリケラトプスの復元骨格――いうまでもなく世界初――であった。とはいえUSNMに移管されたトリケラトプスの標本の多くはジャケットの開封が追い付いていない状態であり、USNMのキュレーターであったフレデリック・ルーカスは「張り子」でこれを作り上げることにしたのである。

(実のところルーカスは古生物学者ではなかった――鳥類を得意とする腕利きの剥製士ではあったのだが化石を扱った経験はなく、従ってルーカスはマーシュの骨格図を単純に「立体化」することしかできなかったのである。)

 かくしてマーシュの復元に基づくトリケラトプスの復元骨格「模型」は1901年の5月から11月までニューヨーク州はバッファローで公開され(模型とはいえ、これはハドロサウルスと“クラオサウルス”・アネクテンスに次ぐアメリカ3種目の恐竜の復元骨格であった)大好評となった(1901年に描かれたナイトの有名な復元画は明らかにこの骨格に基づいている)。これに気をよくしたUSNMは、本家博物館の地質分野の目玉として実骨のマウントを展示することとしたのである。
 パンアメリカン博覧会では断念されたこの難題を任されたのがUSNMにやってきたばかりの若手――ハッチャーの下でクリーニングの修業を積んだギルモアであった。手始めに“クラオサウルス”・アネクテンスのホロタイプをウォールマウントとして送り出し、そしてトリケラトプスの山の中から目を付けたのがUSNM 4842――頭骨の断片やいくつかの椎骨、肋骨と四肢の大部分、そして見事な腰帯であった。
 首から後ろの主要部分はUSNM 4842を核にすることで落ち着いた(欠損部はサイズのだいたい合いそうな他の実骨で埋め、間に合わない椎骨などは石膏模型があてがわれた)が、もうひとつ問題があった。この骨格の「顔」が欠けていたのである。ここでハッチャーが見出したのがUSNM 2100――吻を欠くもののほぼ変形のない、見事な頭骨であった(下顎は別個体のものである点に注意)。

 ハッチャーの死から1年後の1905年、ギルモアとその相方であるノーマン・ロスの手によって「トリケラトプス・プロルススの復元骨格」が完成し、USNMの目玉展示となった(当時の新聞記事が熱気を教えてくれる)。その後もギルモアとロスの手によって続々と恐竜のマウントがホールを飾っていく中にあって、この骨格はUSNMの化石ホールの顔であり続けたのである。

(「張り子」の復元骨格模型はその後セントルイス万博を始め全米各地を巡回し、その後一旦スミソニアンの展示に復帰した。1907年にはこれと同型のものが大英自然史博物館で展示された(今日でも常設展示のままである)が、これがオリジナルの「張り子」そのものなのか、「張り子」のレプリカであるかははっきりしない。)

 1907年になってようやく出版されたハッチャーの遺作である角竜のモノグラフ(もともとマーシュの死後ハッチャーが引き継いだ研究であった)でUSNM 4842とUSNM 2100は詳しく記載・図示され、特にUSNM 4842については貴重なトリケラトプスの体骨格ということもあってその後も様々な文献に図が転載されることとなった。80年代の後半になりポールがトリケラトプス・ホリドゥスの骨格図を描いた際にも、四肢と腰帯にはUSNM 4842があてがわれさえしたのである。
 黄鉄鉱病でいよいよ限界に来ていたマウントは、1998年になってついに来館者のくしゃみのショックで腰帯が崩壊を始めた。USNM 4842はバックヤードへ勇退する一方USNM 2100はそのまま単体の展示として残留し、そしてこの骨格は最新技術のデモンストレーションを兼ねて全身を3Dスキャンされた。20GB“もの”データを元にこの骨格のプロポーション――USNM 2100はUSNM 4842と比べて一回り小さな個体であった――は矯正され(ついでに足にあてがわれていたエドモントサウルスも追い出された)、2001年に“ハッチャー”としてこの骨格は再デビューを飾ったのである。

 USNMの黄金時代を飾った“ハッチャー”の功績は上に書いた通りであり、USNM 2100にせよUSNM 4842にせよ、その標本としての重要性はいまだに揺るがない。USNM 2100ほど変形の少ない成体の頭骨は他にほとんど知られていないし、USNM 4842ほどのサイズで体部の記載のある(それも変形のほぼみられない)トリケラトプスは他にないのである。
 トリケラトプスの復元イメージを114年間担い続けてきた“ハッチャー”は、かくしてUSNMの恐竜ホールの顔役をティラノサウルスへ譲り、文字通り身を捧げることとなった。USNM 4842に基づくポールの骨格図もフィールドガイドの第二版から消えたが、それでもギルモアとロスが手塩にかけた標本たちはUSNMの収蔵庫で息づいている。

(USNM 4842の頭骨のうちまともに残っているのは上眼窩角だけであり、従って(上腕骨の形態からしてトロサウルス属ではなくトリケラトプス属なのはほぼ確実だが)USNM 4842の種を定めるのは難しい。USNM 4842のナンバーを振られた断片の中には明らかにエドモントサウルスの上顎骨が紛れ込んだりしているのだが、一方でどうも鼻角らしいものも見受けられる。何となく腹側から撮影したように見え、だとするとホリドゥス的な小さな鼻角のようにも見えるのだが、さてどうだろう。)

テンダグルの丘を越えて

$
0
0
イメージ 1
↑Composite skeletal reconstruction of Giraffatitan brancai
largely based on paralectotype MB.R.2181 with complete skull MB.R.2223.
Scale bar is 1m for MB.R.2181.
The largest specimen (formerly known as HMN XVII)
is approximately 13% larger than this specimen.

 19世紀後半から20世紀前半にかけての古生物学の輝かしい歴史はそのまま帝国主義の一面でもあることについては今さらここに書くまでもないわけで、今であればあらゆる理由で持ち出しがためらわれるような標本が相当数無茶な旅を経て国境を越えたわけである。とはいえ、そうでもなければ永久に人目に付くことなく風化で消えていったであろう標本も多く、このあたりは古生物学にせよ考古学にせよ、今日厄介な問題となっているわけである。
 テンダグルといえば東アフリカ随一の恐竜化石(に加えて相当量の浅海の軟体動物化石が産出するのだが)産地であるが、そういうわけでこの丘が陽の目を見たのは1907年、帝政ドイツの植民地時代のことであった。この地で発見された恐竜――ジラファティタンに代表される――は、帝国主義の行く末に至るまで、時代の波に翻弄され続けることになったのである。

 ツェツェバエが飛び交いライオンが出ては地元民が襲われるこのうっそうとした、それでいて急峻な丘で最初に恐竜化石が発見されると、にわかにこの地は古生物学者の注目を集めるようになった。探鉱技術者のサトラーによって発見された2種の竜脚類は翌1908年にはそれぞれギガントサウルス・アフリカヌス、ギガントサウルス・ロブストゥスと命名され(すったもんだの末両種はそれぞれディプロドクス亜科のトルニエリア・アフリカーナと真竜脚類――トゥリアサウリアかカマラサウルス一歩手前段階かははっきりしないが、とりあえず以前言われていたようなティタノサウリアではないようだ――のヤネンシア・ロブスタとなった)、そして1909年にはドイツ帝国自然科学界の威信をかけた大規模な遠征隊がテンダグル――タンザニア南部へと乗り込んでいったのだった。

 テンダグルの丘の周辺はまさしく化石の山であった。おびただしい数(アルファベットひとつずつの割り当てが追いつかなくなり、かなり訳の分からない整理記号が付けられた)のサイトが開かれ、人力、帆船、蒸気船、汽車を駆使して壮絶な量の化石がベルリンへと送られた。ベルリン大学博物館(後フンボルト大学博物館を経て現ベルリン自然史博物館)の地下収蔵庫が(今もなお)納骨堂のような有様となったのは言うまでもないことで(古くからこの辺の写真はよく知られている)、ヤネンシュらベルリン大の研究者はその後40年以上に渡って――帝政ドイツから共和制ドイツ、ナチスドイツそして東ドイツに至るまでの間、納骨堂に通い詰める羽目になったわけである。
 さて、遠征隊の調査は1912年に終わり、とりあえずヤネンシュが手を付けたのが竜脚類であった。遠征前にすでに“ギガントサウルス”2種がテンダグルから知られていたわけだが、他にも複数の新種が存在することは明らかであった。かくして1914年、ヤネンシュはテンダグル層の中部恐竜Middle Dinosaur部層および上部恐竜Upper Dinosaur部層(キンメリッジアン後期~チトニアン;1億5560万~1億4550万年前ごろ)からブラキオサウルス属――モリソン層でただ一つの部分骨格が知られているだけだった――の新種を命名した。恐ろしいことに、遠征隊の旗振り役であったブランカの名を種小名に冠したその恐竜――ブラキオサウルス・ブランカイ――は、実質的に全身の要素が発見されていたのである。

 全身の要素が記載されるまでにはその後長い年月を要したのだが、それでもこの発見によってブラキオサウルスの理解は一気に進んだ。1915年には早くもブラキオサウルス・アルティソラックスの欠損部の補填にB.ブランカイを用いた骨格図が描かれ(実のところこの時点ではB.ブランカイのほとんどの部位は未記載だったのだが、肩帯や肋骨、尾などはあきらかにB.ブランカイのそれを参考に描かれており、どうも写真がひっそりとアメリカまで流通していたらしい(一方で頭骨はクリーニングが追い付いていなかったのかあからさまにカマラサウルスである)。ルシタニア号事件が起きたのはこの年のことであった)、雲突くばかりの姿が一般の目に触れるようになったのである。
 ベルリンへと持ち帰られたブラキオサウルス・ブランカイのうち、HMN SII(Sサイトで発見された2体目の標本の意。露骨に整理番号である)は全身のかなりの部分が揃っていた。これを基に復元骨格を制作することはすんなり決まった――が、第一次世界大戦とその後のすったもんだを受け、制作は遅れに遅れた。その間に東アフリカはドイツ領からイギリス領へと変わり、テンダグルへ意気揚々とカトラー率いる遠征隊が乗り込み、そしてマラリアの前に斃れた。

 1937年、ようやくブラキオサウルス・ブランカイの復元骨格がベルリン大学博物館にお目見えした。変形と損傷の酷かった仙前椎を全て模型に置き換えることで強度面をクリア(頭骨もキャストというか模型が据えられていたことは言うまでもない;長骨は実物だったがドイツ的美意識のためか容赦なく鉄骨が通された)したこの骨格は、当時すでに世界各地で見ることのできたディプロドクスの骨格をはるかに凌ぐ、文字通り「最高」の復元骨格であった。
 直後に第二次世界大戦の口火が切られ、復元骨格はあっという間に解体された。ケントロサウルスの化石のほとんどを始め、かなりの数のテンダグル産恐竜化石が空襲で失われたが、ブラキオサウルス・ブランカイの化石のうちのほとんどはどうにか無事であった。気が付いてみればベルリン大学博物館は東側にあり、そしてカトラー隊の命を吸った大英自然史博物館のテンダグル産ブラキオサウルス類――今日新種と考えられており“Archbishop”(大主教)の仮称で呼ばれている――も未記載のままかなりのパーツが戦禍に呑まれていたが、それでもヤネンシュは研究を続けたのである。

 ヤネンシュのローペースながら(なにしろ研究材料がありすぎる始末である)精力的な研究の甲斐もあり、いつしか(むしろ1915年以降常にというべきか)ブラキオサウルスといえばB.ブランカイという状況ができあがっていた。あらゆるブラキオサウルスの復元のベースとなるのはB.ブランカイであり、模式種たるB.アルティソラックスは半ば忘れられたような状況でさえあったのである。
 70年代になり、ジェンセン率いるBYUの調査隊がコロラド南西部で一大産地――ドライ・メサを発見したことで少々状況は変わった。巨大な(実のところ特別巨大でもなかったのだが)ブラキオサウルス類の肩甲骨(や頸椎)がここから産出し、これの記載にあたってB.アルティソラックスのホロタイプや同種らしい巨大な断片が取り上げられたのである。
 そして80年代になり、骨格図を武器に一躍時の人になったのがポールであった。大英自然史博物館の標本の情報も取り入れ、ヤネンシュがB.ブランカイの研究の総まとめとして描いた(かなり記号的な)骨格図とはずいぶん趣の違う――まさしくキリンのような――骨格図を描き出したのである。ポールはここでB.アルティソラックスとB.ブランカイの胴椎のプロポーションに著しい違いがあることを指摘し(復元骨格にせよヤネンシュの骨格図にせよ、胴椎の変形の補正は完全にB.アルティソラックス頼みであった)、B.ブランカイをブラキオサウルス属の新亜属――ブラキオサウルス・(ジラファティタン)・ブランカイとしたのであった。

 ポールの分類は例によって特に相手にされなかったのだが、それ以来、ブラキオサウルスの復元イメージは(B.アルティソラックスも含めて)ポールのジラファティタンに置き換えられることになった。ブラキオサウルスの名のあるところ、ポールに言わせるところのジラファティタンが(皮肉にも)常に立ち続けたわけである。
 2007年になり、フンボルト大学博物館改めベルリン自然史博物館のブラキオサウルス・ブランカイのマウントはリニューアルに合わせポールが泣いて喜ぶ姿勢で組み直された。もはや完全に不適切になった胴椎の模型は(頸椎もろとも)取り除かれ、新たに、より適切に作られた模型に差し替えられた。のっぺりした頭も完全な頭骨に基づき拡大された3Dプリントの模型に置き換えられ、足取り高く、前より一層高みから来場者を見下ろす格好となったのである。
 状況が変わったのは2009年のことで、ポール以来初めてまともに(ポールによる比較がまともだったのかはさておき)B.アルティソラックスとB.ブランカイの骨学的な比較が行われた。結果、B.ブランカイをB.アルティソラックスに特段結び付けられる特徴が実のところ何もないことが明らかになった――ここに、ブラキオサウルス・ブランカイはジラファティタン・ブランカイとして広く認められるようになったのである。

 発見から100年以上が過ぎたが、今なおジラファティタンはブラキオサウルス科としては最も完全な骨格が知られているものとなる。ブラキオサウルス科のイメージがいまだにジラファティタンに頼り切りな状況なのは言わずもがなだが、頭骨など、既知のブラキオサウルス科の中では最も「過激」なつくりでもある。
 ジラファティタンは相当数がキンメリッジアン後期からチトニアンにかけて海岸付近にのさばっていたらしいのだが、実のところこれは輝かしいブラキオサウルス科の歴史の真ん中あたりでしかない。少なくとも北米では、白亜紀中ごろまでキリンに似た竜脚類の一群が繁栄を続けていたのである。
 

平成のうちには間に合わない話

$
0
0
 新年度である。もろもろの罪に問われた筆者はしばらく前から流刑になっているわけだが、とりあえず7月12日かそこらには上野に出頭しなければならないようだ。
 さて、筆者が(かつての)本業のライフワークとしていた某上部白亜系の小露出だが、ここでは以前からバキュリテス(言わずもがなの棒状異常巻アンモナイト)がわりあい多産する。が、実のところ自信をもってバキュリテス(ユーバキュリテスということはないだろう)と言い切れるものは案外少なく、なんらかのゆるいテーパーの付いた棒/棘状の(ゆるくカーブしていることがないわけでもない)化石はとりあえずバキュリテスとされがちである。
 ご多分に漏れずバキュリテスはこの地層でも密集産状を示しがちなのだが、その中に“バキュリテス・レックス”とされる30cmほどの化石がふたつ、ほぼ平行に並んで産出した例がある。これは(いかんせん死ぬほどもろいので)母岩から取り出されることは今日までなかったのだが、一方で最近になって母岩をいくらか削ってやるとやたら薄い骨質――炭酸カルシウムのなれの果てではない――の壁がいくつも現れた。上部白亜系の上部からディプロドクス上科の報告はちらほらあるわけだが、どうもこの化石もそれであるようだ。ごく最近になって、「例の」層準からよく関節した上半身が出ていたりもするのだが、これはほぼ間違いなく同じ種のものだろう。

そのうち移転するおしらせ

$
0
0
 4月である。R-TYPEの新作に筆者のバイド汚染された領域は疼き、茨城県博の特別展(どういうわけか本ブログが協力機関として挙げられている)はとっくに始まり、そしていつの間にか恐竜博2019のサイトはリニューアルされてまともな代物になっていたわけである(まだだいぶ工事中のようなのだが)。特に深い理由もないまましばらく本ブログの更新をほったらかしていたわけなのだが、そうこうしている間にわりととんでもない事態になっていたことは読者のみなさまはご存知の通りであろう。
 
 というわけで、開設から5年半をむかえたGET AWAY TRIKE !ですが、Yahoo!ブログのサービス終了にともない、夏ごろ(おそらく8月までには)をもって別ブログサービス(はてなブログが有力)に移転します。
 夏まではYahoo!ブログ上でこれまで通りゆるゆると更新していきますが、それ以降、別サービスへ移行後もどうぞよろしくお願いいたします。

恐竜博2019によせて

$
0
0
 カーナビ(特に“レイ”とかそういう名前を付けているわけではない)の言うことには、今日は「恐竜の日」なわけである。由来がいまいちぴんとこない日なのはここに書くまでもないことなのだが、そういうわけでうまくタイミングを合わせたのか、恐竜博2019に展示されるむかわ竜デイノケイルスのマウントが報道発表された。

 むかわ竜のマウントは先日一瞬だけ(ほんの数時間で削除されたあたり、「うっかり」だったのだろう)8割がた組み上がった状態の映像がネットニュースに流れたりもしたわけだが、今回公開されたのは塗装も済んだ完成版(たぶん)である。見ればわかる通りアーティファクトは吻と仙椎、遠位尾椎のみと最小限に留められており、雰囲気のいい塗装と相まって、純骨並みの迫力である。結局(少なくとも今回のバージョンは)アーマチュアが外装式とはいえキャストで組み上げられたわけだが、これはむしろ(当然)英断といえるだろう。
 胸郭の幅が広すぎるのは明らかに胴椎と肋骨の変形のせいのようで(肋骨自体、数は揃っているものの(おそらくほとんどが発掘の過程で)粉々になっている状態である)、本来であれば胸郭はより幅が狭く、烏口骨は(左右で関節することはむしろあり得ないのだが)より正中に近づくはずである。
 頭部のアーティファクトはエドモントサウルス準拠のようで(小顔とはいえ、頬骨の形は確かにそれっぽいのである)、吻は(推定される範囲内としては)めいっぱい伸ばして復元されているようである。吻が出ていない以上何とも言えないわけだが、今回の復元骨格より吻が長いということは多分ないだろう。

 デイノケイルスのマウントは塗装前というか見るからに未完成なのだが(右の腰帯ができあがっていないようで、頸椎なども内装式アーマチュアの「フタ」がまだ取り付けられていない。もっとも、化石の色がネメグト層でよくある白っ茶けた色なので、塗装したところでここから特別印象は変わらないはずだが)、その全容を知るのには十分である。「新標本」のうち成体の方のキャストをベースに、ホロタイプ(新標本の成体の方と誤差の範囲で同サイズなわけだが)と幼体の要素をサイズ合わせして組み込んでいるようだが、サイズ合わせはうまくいっているようで、「コンポジット感」は全くない。
 未記載のむかわ竜はさておいてもデイノケイルスの「新標本」の写真の露出はこれまで頭骨を除けば椎骨数点と腰帯、脛などに限られていたわけで、マウントの出来が普通によかった(スゴイ・シツレイ!)のはともかくとしても、今回の情報解禁は素直に嬉しいところである。左膝には母岩のブロックが付いたまま(キャストが取られた)なわけだが、これは胃石の密集したブロックだという消息筋の話である。

 むかわ竜にせよデイノケイルスにせよすんなりマウントが組み上がるわけではない代物だったわけだが、蓋を開けてみれば水準以上の出来だったわけで(このあたりゴビサポートは昔からよい仕事をしていたわけなのだが)、恐竜博2019の展示については(勝手に)一安心である。気が付けば開幕までもう3ヶ月を切っており、楽しい夏まで指折り数える日々はもうとっくに始まっている。

 閑話休題、本ブログに長年お付き合いいただいている読者のみなさまは散々ご存知の通り、げったうぇーとらいく!の白々しい内容の記事には必ず裏があるわけである。備えよう。
 

企画展「体験!発見!恐竜研究所 ようこそ未来の研究者」レポ

$
0
0
 会期が始まってからだいぶ経ってしまったわけだが、そうは言ってもゴールデンウィークはこれからであり、修羅場はこれからであろう。そういうわけで開幕セレモニーにおよばれしてきた筆者だが(なんなら本ブログも協力機関としてクレジットされている)、ミュージアムパーク茨城県自然博物館の企画展「体験!発見!恐竜研究所 ようこそ未来の研究者」について、ごくかいつまんで紹介しておきたい。
 本企画展は大変「教科書的」な展示企画となっており、その内容はおそろしく網羅的である。図録の作りも含めて、基本の「き」から最新のトピックまで追いかけられる作りなわけである。会場・図録ともツク之助(最近筆者と手を組んだ)によるやたら親しみやすい絵に溢れている一方で、妙にマニアックな標本がちりばめられているあたりはさすがといったところである。茨城県の白亜紀の化石をきっちり並べているあたりもさすがに地元(というにはだいぶ遠いが)というべきで、最近発見された巨大なスッポンの化石(撮影禁止)まで展示されている。

イメージ 1
 改めて見るとやはりとんでもなくデカいわけである。常設展示のエウオプロケファルス・トゥトゥス(あるいはスコロサウルス・スロヌス――ペンカルスキ―の分類にはかなり懐疑的な筆者である)と比べてみれば、うっかりアンキロサウルスの全長を11mほどと見積もったクームズの気持ちもよくわかるものである。

イメージ 2
 主に巡回要員と化している感はあるが、茨城県博のカルノタウルスは日本で初めて展示された代物(の成れの果て)のはずである。キャストとはいえ頭骨を間近で見る機会は案外少ないわけで、原記載では実態のつかめない無残な変形っぷりがよくわかる。前頭骨の角は本来ほぼ水平に伸びていたと思われる。

イメージ 3
 タッチ要員で“ウルトラサウロス”のホロタイプBYU 9044(今日ではスーパーサウルスの胴椎とされている)のキャストが置いてあったので肝を抜かした筆者である。サイズの割に極めて繊細な代物であることがよくわかる。

イメージ 4
 そしてその奥にしれっと鎮座しているのはウルトラサウロスとされていた肩甲烏口骨BYU 9462(あくまでもホロタイプは胴椎の方である)である。やたら細い肩甲骨ブレードの軸部が目を引く。

イメージ 5
 目玉展示ということでさすがに大迫力である(ジェーンの薄さがやけに目に付く)。床置きされているぶん、実際のサイズ感そのままなのが地味に嬉しい。幼体はLACMのマウントと同型(=常設展示されているLACM 28471が載っているもの)が展示されると思いきや、タルボサウルスの幼体準拠の頭骨の載ったタイプであった(スケジュールの関係でやむなく常設のLACM 28471のキャストの写真をうまいこと企画展のポスターに使ったということのようである)。

イメージ 6
 隙をつけばジェーンの写真も撮り放題である。

イメージ 7
 例によってしれっとおさわりOKになっているのはUCMP 118742のキャストである。ポールによる伝説の推定値で有名な(そんなことはない)この標本だが、とりあえずおさわりのついでに色々な角度から観察できる。

イメージ 8
 むかわ竜の後方胴椎(撮影禁止)をはじめ、各地のご当地恐竜も色々と展示されている。産地の話はさておき、ニッポノサウルスの(ろくでもない出来のマウントではない)キャストを見る機会もあまりないところである。

 写真で紹介したものは展示のごく一部であり、様々な時代の様々な分類群(恐竜以外も含めて)がかき集められている。展示品のチョイス(トリを飾るのは、筆者がかつて散々触りまくった連中である)もさることながら、映像による解説も要所で光っており、ついでに書き加えておくとちびっこがGAT印の骨格図を奪い合うことさえある。毎年おなじみの福井に加え今年の夏は上野でも恐竜展なわけだが、その前哨戦に(あらゆる意味で)ふさわしい恐竜展といえよう。

「恐竜博2019」レポ

$
0
0
 7月も半ばである。筆者はといえば色々と綱渡りの状況が続き(無事渡りきれたかといえばそんなことはない)、そうこうしている間にブログの引っ越しができるかといえばそんなこともなかったわけである。

 諸般の事情により内覧会におよばれしていたにもかかわらず参加できなかった筆者だが、意地で恐竜博2019(7/13(土)~10/14(月・祝))の初日に行ってきたわけである(毎度ながらお付き合いいただいた山本聖士さんには感謝の言葉もない)。もろもろの事情は薄い本のネタにとっておくとして、かいつまんで展示を紹介したい。

イメージ 1
 謎の骨格図をばらまいている入り口をくぐれば、いきなり目玉の一つであるデイノニクス・アンティロプスのホロタイプYPM 5205のお出ましである。足だけとはいえ保存のよさも相まって存在感はすさまじく、初っ端から身動きが取れなくなること請け合いである。隅々までよく観察されたい。

イメージ 2
 デイノニクス、テノントサウルスのマウントは共に今回の特別展に合わせて組まれたものであるらしく、前者のマウントは現在存在するタイプの中では最良のものと言ってよいだろう(依然として問題はあるのだが)。よくできたテノントサウルスの亜成体もよく知られた頭骨の主のようで、日本ではまずお目にかかれない代物である。

イメージ 4
 もとを辿れば本館の展示以前に特別展の目玉としてカーペンターによってマウントされた骨格である。今となってはプロポーションには問題しかないのだが、裏を返せば10mクラスのマイアサウラの要素が組み込まれているということでもある。

イメージ 5
 羽毛恐竜枠は今年も見事な標本が(キャストについても)持ち込まれており、シノサウロプテリクスのホロタイプは久方ぶり(たぶん)の実物である。頭骨の保存はコンプソグナトゥス・“コラレストリス”と並び、コンプソグナトゥス科としては最良の部類に入るだろう。

イメージ 3
 問題のスピノサウルスの頭骨はだいぶ無理やり展示に組み込んだ感があり、見ての通りの代物である。別の意味でCTのかけがいはあるだろう。

イメージ 6
 デイノケイルスのホロタイプは今回キャストだけだが、その分肉薄して観察することができる。サイズ相応のゴツさはあり、原記載でカルノサウルス類とされたのもわかる話ではある。関節の粗面は竜脚類的な発達具合である。

イメージ 7
 二度目の来日のはずだが、今回合法的に日本の土を踏んだことになる。しっかり張り付いて観察されたい。

イメージ 8
 「ひづめ型」の末節骨だが、側面から見ると根元でカーブしているのが面白いところである。背景に映り込んでいる骨格図は気にするな!(魔王様)

イメージ 9
 グラスファイバーの生々しい浮きがあったりで突貫工事感は割と露骨なのだが、そうは言ってもよくできたマウントである。頭にせよ前肢にせよ、全身のバランスからしてみれば特段大きなものではない。左膝に引っ付いているのは胃石のブロックである。

イメージ 10
 伏兵だったアンセリミムスの全体パースを撮りそびれたのはさておき、カーンに加えて未記載のオヴィラプトル類も来日している。前肢の退縮がかなり進んだタイプであり(しかも二本指である)、ネメグト層から盗掘された標本である。

イメージ 11
 鳥屋城層産のモササウルス類の産状はため息が出るほど美しいのだが、それを容赦なくクリーニングしているのはさすがといったところである。モササウルス類としては異様なプロポーションやら肩関節の構造やら、見どころは非常に多い。

イメージ 12
 むかわ竜のマウントはかなり厳重に囲ってある。終わってみれば(当然、始まってすらいないという見方もできる)筆者としても謎の感慨深さがあったりもする。
 関節突起の変形やらマウントの都合やらで肋骨籠がやたら幅広くなっている(ハドロサウルス類は幅の狭い生き物である)が、それを除けば基本的によくできたマウントである。吻のアーティファクトはもう少し短くてよいはずだ。

イメージ 13
 イクチオルニスの実物というだけで日本国内では十分珍しいのだが、この保存状態である。脇にあるマウントのディテールとの差に注意したいところ。

イメージ 14
 パタゴプテリクスも最良の部類に入る標本のはずである。前半身は驚くほど立体的に保存されている。

イメージ 15
 ヴェガヴィスもため息が出る代物である(並べ方が謎なのはともかくとして)。このくらいの完全度で初めて現生鳥類との関係がまともに議論できるのだろう。


 標本点数はいささか少ない感もあるのだが、今回の標本の質は極めて高く、「ハズレ」は実質スピノサウルスの頭骨とチレサウルスのマウントくらいであろう。数年前に学会で報告されたきり動きのなかった「二本指のテリジノサウルス類」(写真はあえて貼らなかった)も、腰帯の保存状態など、見るべきところはたくさんある。
 恐竜博2019の展示物は(結局のところむかわ竜にせよデイノケイルスにせよ)通好みというかだいぶ渋いチョイスといえるが、それでも(NHKのもろもろが相当効いているのだろうが)大盛況であった。ティラノサウルス(穂別博物館が購入した“スコッティ”である)の存在感がろくにない展示というのも珍しいもので、このあたりはひとつの試金石となるかもしれない。
 学術協力者の名前ばかりが取りざたされていたような印象のある本展だが、蓋を開けてみれば監修者のこれまでの研究の集大成といった趣の展示であった。どういうわけか筆者がクレジットに見え隠れしたりもしているのだが、それはさておき、一つの到達点としてみられる特別展である。




Latest Images